スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

小橋 建太

小橋 建太(こばし けんた、本名:小橋 健太、1967年3月27日 - )は、プロレスリング・ノア所属のプロレスラー兼取締役。京都府福知山市出身。186cm、115kg。血液型B型。

1990年代後半から2000年代のプロレス界を代表するプロレスラーの1人。無骨なまでに鍛え上げられた肉体と、感情を前面に出して相手選手・試合順・会場を問わず観客を沸かせる試合センスから、東京スポーツ(東スポ)主催のプロレス大賞のベストバウト、MVP、日刊スポーツの読者が選ぶMVPなどを何度も受賞し、識者・ファン問わず大きな支持を得ている。特に他のスポーツ経歴を持たないレスラーとしても、日本人の中でトップクラスの結果を残している。 また、志賀賢太郎、金丸義信、力皇猛、KENTA、潮崎豪の師匠として、後進の育成にも取り組んでいる。

デビュー時のリングネームは本名の「小橋健太」だったが、2000年にNOAHが創設されたのを機に「小橋建太」に改名した。

ちなみに地元の福知山市動物園のシロテナガザルの「健六」は、彼の名前の一部からもらったものである。このシロテナガザルは、動物園の中ではかなりの人気者の動物で、全国のテレビ局やラジオ局などから取材に訪れることがよくあるが、2006年に実は雄ではなく雌である事が発覚した。

2006年7月の高山善廣復帰に関し、小橋がタッグを組むとのことで話題性を集めていたが、6月29日、精密検査で腎腫瘍が見つかり、手術・欠場となる見通しであることがNOAHから発表された。
略歴
1967年03月27日…京都府福知山で生まれる
1973年04月01日…惇明小学校入学
1979年04月01日…桃映中学校入学
1982年04月01日…京都府立福知山高等学校入学
1985年04月01日…京セラに入社
1987年02月14日…プロレスラーになるため京セラを退職
1987年06月某日…一度書類審査で落とされるも、通っていたジム会長のつてで全日本プロレスリングに入団
1988年02月26日…滋賀・栗東町民体育館にて大熊元司戦でデビュー
1990年04月09日…二代目タイガーマスクと組んで自身初のベルトであるアジアタック王座を獲得
1993年08月31日…豊橋大会で、ウィリアムスと三冠挑戦者決定戦で激突し敗退
1993年12月03日…三沢光晴と組んで「世界最強タッグ決定リーグ戦」に初優勝、同時に第24代世界タッグ王座に就く(初戴冠)
1996年07月24日…田上明を破って第16代三冠ヘビー級王者に就く(初戴冠)
1998年06月12日…川田利明を破って第19代三冠ヘビー級王者に就く。勝利インタビューで「新時代宣言」を提唱
1998年09月11日…小橋健太・秋山準を中心に新チーム「バーニング」を結成
2000年02月27日…ベイダーを破って第25代三冠ヘビー級王者に就く
2000年04月15日…シングルマッチでの総当たり戦「チャンピオン・カーニバル」で初優勝
2000年06月15日…内部分裂により全日本プロレスリング退団(三冠王座返上)
2000年06月16日…三沢光晴率いる新団体、プロレスリング・ノアへ移籍を発表。同時に膝の手術で入院
2000年08月05日…ノア旗揚げ戦に参加。翌日、秋山準にシングルで初めて敗れる
2001年01月18日…この日を最後に膝の手術とリハビリのため欠場
2002年02月17日…三沢・小橋vs秋山・永田で大々的に復帰戦を行うが、再び左膝を痛め以降欠場
2002年07月05日…本人の意向により後楽園ホール第一試合にて再復帰戦を行う
2003年03月01日…選手権試合では三沢光晴を初めて破り、第6代GHCヘビー級王者に就く(初戴冠)
2003年06月06日…本田多聞と組み第6代GHCタッグ王者に就く(初戴冠)
2004年07月10日…自身初の東京ドームメインで秋山準を破りGHCヘビー級王者を防衛
2005年09月20日…自身初のアメリカ遠征に出発(10月4日帰国)。サモア・ジョーらとの対戦を行う
2006年06月04日…本田多聞と組み第12代GHCタッグ王者に就く(2度目の戴冠)
2006年06月29日…腎臓に4~5cmの腫瘍が発見されたとNOAHから発表され、治療のため無期限欠場となる。

入場テーマ曲
初代:SNIPER(スナイパー)
二代目:GRAND SWORD(作曲:鈴木修)…初代→NOAH Version(NOAH旗揚げ戦以降)→Full Size Version と、バージョンが移り変わっている。
三代目:BLAZIN…2003年3月2日、GHC選手権対三沢戦以降。
四代目:GRAND SWORD(~Full Size Version~)…2005年7月18日の佐々木健介戦。王座を失ったことで、また一から出直すという意味を込めて再びGRAND SWORDに戻す。
GRAND SWORDは小橋が自身の原点とし、ファンに最も愛された曲である。GHC挑戦の区切り、けじめとして2003年の三沢戦で勝っても負けてもこれを最後とするとした。その時の実況を担当した矢島学アナウンサーは「この曲を最後にしない方法が一つだけあります、それはこの試合に勝つこと!!」と絶叫した。再び使用した2005年7月18日東京ドーム大会の佐々木健介戦ではイントロ部分が鳴った瞬間にGRAND SWORDだと気付いた同アナが興奮し過ぎ、事前に考えてきた言葉を全て忘れてしまったという。

主な得意技
小細工など一切無用と言わんばかりにひたすら受けにまわり、チョップとラリアット、そしてスープレックスで彼の試合は作られる。大技連発のそのスタイルは批判されることが多いが、これは彼が若い頃から沢山の技を試してきた努力の結果と、受けの天才である三沢光晴を倒す為に自らを洗練していった結果である。

獲得タイトル
GHCヘビー
第6代王者(防衛13回)。2003年3月1日に三沢の持つGHCヘビー級王座に挑戦、33分28秒の死闘の末、ベルトを奪取。その後、蝶野正洋、永田裕志、高山善廣、秋山、田上などトップレスラーを相手に防衛を重ねる。相手の技を全て受けながら、なおも3カウントを許さずに勝つ強さから、「絶対王者」と言われた。防衛回数は永田裕志がIWGPで記録した10回を超え、IWGP・三冠・GHCの主要3王座での最多記録を更新。だが2005年、力皇猛戦で14度目の防衛に失敗、2年間の長期政権から転落した。
GHCタッグ
第6代王者(防衛2回)…パートナーは本田多聞。2003年11月に新日本プロレス所属の永田裕志・棚橋弘至に奪われ、同ベルトの他団体流出をまねく。
第12代王者(現在)…パートナーは本田多聞。
三冠ヘビー級王座
第16代(防衛2回)…1996年7月24日に田上明を破って、初のシングルベルト奪取。2度目の防衛戦は川田利明と60分フルタイムの引き分け。1997年1月26日に三沢光晴にランニングエルボーで敗れて王座陥落。
第19代(防衛2回)…1998年6月12日に川田利明を破り、2度目の王座奪取。1998年10月31日に三沢光晴に、両腕のダブルエルボーで敗れる。
第25代(防衛1回)…2000年2月27日にベイダーを破り、3度目の王座奪取。全日本プロレス離脱→ノアへの移籍に伴い王座返上。最後の防衛戦の相手は高山善廣。
チャンピオン・カーニバル
2000年。大森隆男を破り、初優勝。
世界タッグ王座
第24代(防衛2回)、第25代(防衛2回)…パートナーは三沢光晴。世界最強タッグ決定リーグ戦に専念するために一度王座返上。同トーナメントは世界タッグのベルトがかけられることとなり、三沢・小橋組が優勝、再び世界タッグ王者となった(1993年までは世界最強タッグリーグシリーズ時に王位を返上し、その年の最強タッグの優勝チームへベルトが与えられる決まりだった)。
第32代(防衛0回)、第34代(防衛0回)…パートナーはジョニー・エース(現WWEエージェント)。
第36代(防衛1回)、第40代(防衛2回)…パートナーは秋山準。2度とも外国人チームにベルトを奪われている。
アジア・タッグ
第51代(防衛1回)…パートナーは2代目タイガーマスクだった三沢光晴。三沢の「もっと上を狙いたい」の言葉と共に王座返上。
第53代(防衛1回)、第56代(防衛0回)…パートナーはジョニー・エース。
第59代(防衛1回)…パートナーは菊地毅。

人柄
プロレス界における小橋の絶対的な人気は、激しい試合内容だけでなく、その人柄に拠る所が大きい。以下、小橋の人柄を表すエピソードを記していく。

練習内容、試合態度

特別なスキルもないながらもトップレスラーの一人となりえたのは、若手時代から誰よりも練習に励んでいたからだとも言われている。全日本プロレス時代、ジャイアント馬場の付き人としてハワイに行った際に、どこにも行かずにひたすらジムでトレーニングをしていた為、見かねた馬場が「休むのも練習の内だから休め」と命令した所にもそれが見受けられる。当時全盛だったロード・ウォリアーズの両者に臆することなく片言の英語でトレーニング方法を教わったとも語った事がある。トップとなった今でもそれは変わらず、道場には若手の誰よりも早く来て(一説によると朝5時半)真っ先に汗を流している。なお、100人が道場の門を叩いてデビューできるのは1人程という非常に厳しいプロレスの練習を乗り切った秋山準やKENTAでさえ、小橋の練習に付き合いオーバーワークで病院に運ばれたという逸話がある。同じく、2002年の復帰直前、KENTAとともにハワイ合宿を敢行していたが、遊びにも行かず本当に一日中ジムへ篭って練習をしていたためKENTAが驚愕したという話もある。全日本プロレス時代、小橋の試合を解説していた川田利明が発した「あいつを殺すには刃物は要らない。ダンベルを取り上げればいい」は彼の練習好きを端的に表す名言。ノーフィアーに「練習大好き健太君人形」を作られ、公開練習で破壊された事がある。また全日若手時代に、ある意味異常とも思える彼の練習熱心さをある中堅選手が嘲笑したところ、当時既にトップレスラーだった天龍源一郎が「おまえら笑ってるけど、今にこいつに食わせてもらう日が必ず来るぞ」と言ったことも有名である。
1997年1月20日、大阪府立体育館での三沢を挑戦者として迎える三冠戦前日のことである。小橋は母親に電話をかけ、「俺が死んでも三沢さんを恨まないでくれ」と伝えた。それだけ三沢との戦いには覚悟が必要だったのである。その日スポーツ番組に二人とも生出演する予定があったのだが、小橋の悲壮な覚悟から考えれば不幸中の幸いというべきか、小橋は病院へ直行するだけで済んだ。結局、テレビには三沢のみの出演となったのだが、その現場ではキャスターの中畑清がプロレスの真似事として女子アナの首をしめるなどしてふざけていた。しかし、実際に映像を見ると余りの激しさにショックを受け、三沢に謝罪したという逸話が残っている。
試合中に小橋は「カモン!」や「ファックユー!」等と突然英語を発し始めることがあるが、これは秋山曰く「小橋さんが英語を使うのは調子が上がってきた証拠」とのことである。また、全日本プロレス時代、西前頭四枚目の地位まで昇り詰めた大相撲からプロレスに転向してきた力皇の練習初日、「ほら、チェンジ・ザ・ボディ、チェンジ・ザ・ボディ!」と力皇猛に檄を飛ばしていた。相撲は短期決戦であり、必要な筋肉の作りもプロレスとは全く違うため、一応この言葉には意味がある…と思われる。そんな素敵な英語センスを持つ小橋は、デビュー前の井上猛(後の力皇)を「エドモンド井上(エドモンド本田?)」と名付けようとし、小林健太(後のKENTA)には改名の際「キャメル小林(KENTA本人も認めるようにらくだ顔だから?)」という名前を提案した。勿論、二人とも丁重にこれを断っている。
膝の怪我が相当悪化したときでも、試合のときは普通の足取りで戦っていた。しかし、宿舎に戻るときには若手に両肩を支えてもらいながらバスを降りる小橋の姿が複数のファンに目撃されている。また、唯一長期離脱に入る直前の2001年1月18日を除いては、テーピングでガチガチに固めていた膝を絶対にマスコミに撮らせることはしなかった。また、2006年2月11日の「佐々木健介デビュー20周年記念イベント」にて、天龍の椅子攻撃により口から大量の血が流れ出したが、試合途中に焦って駆けつけ治療しようとするトレーナーの浅子覚を笑顔で制し、触らせることはなかった。試合後も用具を持ってリング上までやって来た浅子を止め、勝ち名乗りとほぼ全選手による記念撮影が終わって観客の見えない所まで行くまでは、決して治療を受けることは無かった。
2004年・2005年の東京ドーム大会ではどちらも壮絶な試合を繰り広げながらも翌日から普通に動き出している。2004年は下の特訓シリーズで。2005年の佐々木健介戦では「肉体的にはやっぱりキツイけど、翌日にフリーの佐々木選手は試合があるとレフェリーの西永秀一に聞いたので負けられないと思って道場に来た。でも、練習を始めた頃に西永が走ってきて『佐々木選手は試合がありませんでした』と言うもんだから、仕方がないから練習して帰った」そうである。ついでに、一方の佐々木健介は小橋との試合で興奮しすぎた為か、試合後の控え室で早速チューブトレーニングや腕立てに励んでいた。
若手時代に全日本のお家騒動で海外修行へ行く事が出来なかったため、海外で試合をする事に人一倍憧れていた。2005年、GHCを失った事から身軽になった小橋は海外での試合を強く訴えるようになる。同年9月20日、遂に会社に認められ試合をする為にアメリカに向けて出発する。アトランタからセントルイスに向かう飛行機内では同性愛者と思われる男の痴漢に股間を触られ、流石の鉄人小橋でもこれには堪えたか、「アメリカは怖い……」と呟いた。しかし、目的地につくと午後11時にも関わらず、開口一番「ジム開いてないの?」と言ってのけている。
2005年1月8日に行われた日本武道館大会では、GHC選手権で挑戦者鈴木みのるを倒し見事に防衛。その直後の勝利者インタビューで観客に向かい、「これからも命をかけてプロレスを頑張ります!」という旨のコメントを出したところ、観客の中から「ヤツならそりゃな…」「お前が言うとリアル過ぎるよ…」という心配がてらの苦笑が漏れていた。

性格

何故だか分からないが、小橋はGHCのベルトと会話が出来るらしくシングル王者時代は毎晩ベルトと語り合っていたそうである。ベルトを綺麗に磨くのも日課であり、直接ベルトを触ってもらうファンイベントがあった翌日、何事も無かったかのようにピカピカに輝いていたベルトを見て当時付け人だったKENTAは大変驚いたそうだ。2006年6月4日にGHCタッグを獲得した時も全く同じ事があり、付け人である潮崎が驚いたという。なお、2005年9月にハーリー・レイスより受け取ったNWAのベルトとも「会話が出来た」らしいが、何語で語り合ったかは不明である。なおこの件に関して、新日本プロレスの稔が「俺のほうがベルトと会話ができる」と対抗心を燃やしている。
非常にファンサービスが丁寧であることも知られている。レスラーに限らず有名人はサインや握手を求められてもプライベート等を理由にサインを断ったり軽くあしらうことは多々あるが、数多の報告例からしてもどんな状況にあろうが小橋の場合は必ず笑顔で対応してくれると言い、殆どと言っていいほど断られたという話は聞かない。その為、小島聡と並びプロレス界の「二大いいひと」に名を連ねられている。ちなみに普段のインタビューではほとんどないが、プライベートやトークショーなどのリラックスできる場では京都弁のイントネーションが出て、さらにファンを和ませる。
かなりの汗っかきとしても有名で、バラエティ番組に出演した際は、周りのゲストは、汗一つかいてないにも拘らず、小橋だけが滝の様な汗を流している事が多い。トークショー等では、よく汗をかく為か、黒い扇子を持参しており、汗をかき始めるとその扇子で自分の顔を扇いでいる。
「プロレスリング・ノア中継」番組最後に行われたDVDのプレゼント告知を一度担当した事があったが、リング外では極度のあがり性のようで、たかだか数秒の告知でNGを10回以上も出したという。その時後ろに居た秋山に思いっきり突っ込まれていたが、やっとOKが出てオンエアされたものでもカンペを棒読みしたものであった。
全日本時代は、ファッションに無頓着であり、Tシャツにダボダボのスウェット姿やジャージ姿でいる事が殆どであったが、ノアに移籍して以降、テレビへの露出が増加した事もあってか、現在では服装にも気を使っているようであるが、その殆どがグレーのポロシャツもしくはグレーのTシャツを着てメディアに出演している。ファンからは「他に洋服を持っているのか?」と疑問の声も挙がっている。なお、全ての全日本所属選手がTシャツを必ずズボンに入れていたのは馬場の教えからである。
2003年。「プロレス大賞でMVPをとった時の為に」と白い和服を仕立ててもらっていたが、結局MVPをとることは出来なかった。主催者からは「是非とも」と請われてはいたが、意地を貫き通してスーツにて出席した。そして、2004年、2005年と三年連続ベストバウトに選ばれてはいたがMVPはとっていないので未だに公の場では袖を通してはいない。銀座もとじ
怒りやフラストレーションが高まると小声でブツブツ喋りだす。
マスコミの写真撮影の時はほぼ上半身裸であるが、これは自分から脱いでいる。

プライベート

30後半にして未婚である事から2005年の始めに泉田純と1年がかりの嫁取りマッチを企画。しかし、5月にあったパチンコ店でのイベントで「好きなタイプは赤コーナー」、「もう結婚しています、プロレスと」等の諦めた発言をし、6月10日の第三回選手会興行のオープニングイベントで、秋山準にそのことを突っ込まれていた。7月の試合中、顔に裂傷を負うも「病院には行かない」と頑なに拒んでいたが、百田光雄から「婿入り前なんだから」と諭され病院へ向かい5針縫ったことからまだ少しは気にしていたようであったが、2006年の誕生日では「ベルトが恋人だから結婚の予定はない。今後するつもりもない」と生涯独身を断言した。と思いきや、4月23日の武道館に向けた丸藤との前哨戦で顔面を蹴られ、2月11日に負った唇の傷口が再び開いたことから「お返しだけはしないといけない」と、やはり顔、結婚を気にする素振りを見せている。2006年5月、KENTAが入籍を発表。これにより、ついに直系の弟子にまで先を越されてしまった小橋であるが、「師匠より先に結婚するとは前代未聞だ!」と嫉妬しながらも「最近のKENTAの調子のよさは内助の功もあるのかな」と、結婚に対しての興味が再び湧いて生きているようだ。上記の通り、雑誌等で必ず小橋をネタにする秋山準は「小橋さんが4時半に起きると言うことは、カミさんは3時半に起きて飯の準備しなくちゃいけない。また、エアコンの温度は16度」と、小橋の奥さんになる条件の厳しさを語っていた。また秋山準は毎年のように東スポ正月特別号に「もう小橋建太に結婚させるのは無理。あきらめた」と小橋の独身事情を持ちネタにしている。
プロレスでは同期の田上明とは仲が良く、公の場では何故か彼のことを「AT」と呼ぶ(プライベートでは「田上さん」と呼んで、敬語である)。大舞台で田上とタッグを組むことになる度に小橋は数日間通しての泊りこみ特訓を提案するが、その都度田上に逃げられている。タッグではないが、2004年1月8日に行われた鈴木みのる戦に向け、年を跨いだ特訓を田上にしつこく提案すると、メールにて「鈴木みのるを倒すため、31日に練習やるぞ。事務所に3時だからな」と了承を得る。確認の為に直接電話をかけると「やんねーよ、バーカ」と冷やかされていたことにその時気が付いた。なお、確認とは「午前三時か午後三時か?」の確認である。また、2005年の12月には年明けに控える対秋山戦に向け田上から合同練習を小橋に提案したが、案の定着信拒否(ドライブモード)でなかったことにされた。話を受けた時から疑わしく思っていた小橋だが、流石にこれには絶句したという。他にも趣味の釣りで海上に逃げられたりもしている為、現在田上の付け人である平柳努の携帯電話を奪取しようと画策中である。
リング外では、どこか抜けていて子供臭く、また完璧なまでの天然であり彼の発言の一言一言に癒されるファンも多い。その中でも最大のファンと噂される秋山準は、多分誰も頼んでいないのに小橋のプロデュースに務め、ことあるごとに彼をいじって楽しんでいる。そんな彼を見て高山や永田は「自分のことをやれ」と批判したが、秋山は「あの人たちには僕にとっての小橋さんが居ないから分からないんですよ」と冷静に返している。
無類の競馬好きで中央競馬に限らず、地方競馬にも積極的に投資している。2004年のJBC競走(大井競馬場で開催)では、プレゼンターを勤めた後、最終レースまで観戦し、最終レース終了後に今までの的中馬券を大量に換金しているシーンがプロレス誌に写っている。
愛読誌は「週刊漫画TIMES」(芳文社)。
何故か動物に敬遠される人間のようで、2005年に秋山と共にイギリスに渡った際は、本来人間慣れしている公園のリスに思いきり逃げられ(秋山の手には乗ったにもかかわらず)、ファンイベントで母親から赤ちゃんを手渡された途端泣き出されてしまっている。その為、2006年の「北海道馬特訓」では馬から近づいてきた事に大いに感動していた。

その他

CHARCOAL FILTERのベストアルバム『C☆BEST+Flying Hi-High』のCMに出演しており、真っ暗なトレーニング場でダンベル片手に「だーめーなじぶんをーあいせはしないー」と歌うという非常にシュールな姿を見せてくれている(特設ページ。CM映像あり)。また、プロレス好きを公言しているSEX MACHINEGUNSのライブアルバムは『Burning Hammer』と名づけられており、そのジャケットはイニシャル「K.K」と記された人物の剛腕となっている。
会社の人間から「ひらめ筋GOLD」の「ハイパー騎馬戦チャンピオンズカップ」の出場要求を受けた時、秋山が出ないと聴くやいなや「準!お前出ろよ!」と秋山の控え室までやって来た。「その日は予定があるから」と再び秋山が断ると「準がでないなら俺も出ないから!」と子どもみたいなことを言い出した(秋山談)という。結局秋山も出ることになったようで、小橋、秋山、力皇、ムシキング・テリーというNOAH最強の布陣を組む。一試合目の新日本プロレス(天山広吉、タイガーマスク、棚橋弘至、中邑真輔)には完勝したが、次戦のWRESTLE-1(曙、プレデター、WRESTLEマスク1号、2号)には、曙の圧倒的な体格の前に押し切られ完敗を喫した。この敗北に対し小橋は、「思った以上に悔しい」と語っている。

通り名
小橋には昔から数々の通り名があり、小橋の成長・立ち位置の変化に伴って変わっていっている。以下、歴史順に記していく。

オレンジクラッシュ
小橋がオレンジ色のタイツを穿いていたことから名づけられた呼称。秋山デビュー一周年の試合で繰り出した技の名前にそのまま受け継がれた。まだダイビング・ギロチン・ドロップをフィニッシュ技としていた頃である。因みに、オレンジ色は、ジャイアント馬場と交遊があった松山千春の発案と言われる。

熱き青春の握り拳
小橋が若い頃からフィニッシュに使用していたムーンサルトを繰り出す前などに握りこぶしをつくり気合を入れていたことと、小橋のスタイルがまさしく若さ溢れる突貫ファイトであったことからこの名前がつけられた。最も長く親しまれた呼称であり、この名前が自身の半生を綴った自伝「小橋健太 [青春自伝] 熱き握り拳」とほぼそのまま採用されている。

熱き魂の握り拳
ベイダーを倒し第25代三冠王者に輝き念願だったチャンピオンカーニバルを優勝した 2000年を前後して、「もう30台で青春とかじゃないし」という理由で次第に「青春」から「魂」へと呼称がシフトしていった。しかし、余り定着はしなかったようである。

黒小橋
2000年10月7日、ディファ有明で行われた小橋・力皇組対秋山・金丸組にてそれまでのオレンジタイツから突如として黒のタイツに履き替え入場してくると、今までとは違った非情な攻めで秋山を攻め続け剛腕二連発で失神に追い込んだ。そして10月11日の愛知県体育館大会、対大森戦でのシングルで見せた小橋の情け容赦ない徹底的な攻めに大森は大流血、半失神状態に追い込まれる。誰の目から見ても試合として成立していなかったが、それでもなお無理やり掴み起こしてラリアット等の攻撃を繰り返した。この今までの小橋では考えられない非情さと、タイツを黒に変えていたことから畏怖の念を込めてこう称された。また、「鬼小橋」とも呼ばれる。

鉄人
膝の手術でもう復帰は無理と思われていた小橋が、本当に膝を治し戻ってくるという辺りからそのプロレスにかける情熱と不屈の精神へ尊敬の念を込めてこう称された。GHC戴冠後から特に強調されだし、下記の「絶対王者」が浸透するまでは「鉄人小橋」と半ば枕詞と化していた。
ミスタープロレス
2003年、蝶野正洋が小橋との対決を熱望してノアマットを訪れた際、「小橋、お前はミスタープロレスだ」と言い放った。このことから、その後しばらくファンの間で「小橋はミスタープロレス」と言われていたが、2005年9月、小橋が初のアメリカ遠征に出向いた際、本物のミスタープロレスでありミスターNWAと称されたハーリー・レイスから、「もう私はミスタープロレスではない。これからは小橋がミスタープロレス」と言われる。その後行われた試合では、あのNWA世界ヘビー級王座のベルトをレイスから巻いてもらった(後にそのベルトは「その名を受け継ぐには畏れ多い」という小橋の思いからレイスに返還されている)。現在WWE副社長であり元タッグパートナーのジョニー・エースからも同様の言葉を投げかけられた。小橋が真のミスタープロレスとなった瞬間であった。このことから秋山はハーリー・レイス認定NWA世界ヘビー級王者と呼ぶこともあり、日本に存在するもう一人のミスタープロレス、天龍源一郎と区別するために「ハーリー・レイス認定ミスタープロレス」と付け加えることもある。

絶対王者
GHC戴冠後、選手権試合では必ず名勝負を繰り広げ勝ち続け、NOAHのみならずプロレス界を一身で背負うその偉大な姿を指して「絶対王者」と称される。マスコミ・ファンに関わらず、小橋を称する際の枕詞の如く使用され、まさしく絶対王者=小橋という状況であった。当然ながら力皇にGHCを奪われた後は殆ど使われなくなったが、この言葉のインパクトは大きかったらしく「元絶対王者」等と使われることが現在でもしばしばある。なお、これを初めて使い出したのは他ならぬ秋山準である。
ジャパニーズ・レジェンド
2005年より、小橋はアメリカ、欧州と海外遠征に初めて出ることになったが、ニューヨークでのROHの大会に出場することになった際、地元紙には「Japanese Legend」の文字が載った。アメリカでもコアなファンはネットによって小橋の存在、活躍は十分知っており、会場入りする前にはNOAHのTシャツを着たファンに出会ったほど。試合内容も日本と同様に熱い小橋を存分に見せつけ、会場全体から「KOBASHI」コールが異常なほど響いた。試合後、会場は「ARIGATO」の大コールに包まれた。「生ける伝説」小橋建太がアメリカでもその力を発揮、ファンに見せつけたことによって、更なるムーブに発展することも十分考えられる。

伝説の男
2005年10月2日秋山がW-1グランプリでボブ・サップと初対決し敗れたことから「伝説の男が4日に帰国するから、話してみるよ」と海外遠征中だった小橋にリベンジを期待する発言をし、10月8日の後楽園大会のセミで小橋とタッグで対決する際、表に「伝説の男 vs 野獣」、裏に「アニキ あとは 頼んだぞ!」というTシャツを着て入場し、小橋にTシャツを渡した。試合後のマイクでも、「アニキ、任せました!」と発言し握手を交わす。元々小橋は「生ける伝説」としてアメリカを始めとする日本以外のマニアックなプロレスファンから崇拝されており、小橋の米国遠征と掛けた秋山の新たなキャッチコピー作りの一環であると思われる。なお、「アニキ」はラッシャー木村がジャイアント馬場を「アニキ!」と呼び慕っていたことへのオマージュであろう。ちなみに「伝説の男 vs 野獣」はいまだ実現に至ってはいないものの、2006年5月13日のK-1オランダ大会でサップが試合直前に逃亡した件に関して、同月15日にK-1の谷川貞治イベントプロデューサーが行った会見にてサップが同年4月23日に行われたNOAHの日本武道館大会への出場オファーを拒否していた事が発覚。オファー拒否の理由は不明だが、もしサップが首を縦に振っていたら「伝説の男 vs 野獣」が実現していたのは間違いないだろう。

プロレスの女神に愛された男
長期政権を築き上げていく中、インターネット上で徐々に称されるようになってきたファン発祥の通り名である。歴史に残ると言っても良い数々の名勝負が、そのキャラクターからしてどう考えても意識的に組み立てていったものとは思えない多数のファンが、「小橋の行う動きの全てがプラスに傾く」と仮定し、それは「プロレスの女神に愛されているからだろう」と結論付けたことに由来する。なお、何故「女神」なのかと言えば、単純な話で何時まで経っても結婚できないからである。女神とは嫉妬深いものらしい。

チョップ小橋
2005年の佐々木健介との一騎打ちで異常なチョップ合戦を繰り広げ、以降より一層チョップが小橋のトレードマークとなっているが、秋山が2005年末のNOAH中継スペシャルに於いて小橋を「チョップ小橋」と命名。小橋も「それに拘りますね」と発言したことから、現在の通り名となっている。

キャラクター
NOAH以降、ハロウィン興行やクリスマス興行等で普段のハードな試合展開とはかけ離れた楽しく夢のある興行を打つようになる。それに伴い小橋もいくつかのキャラクターをその場限定で演じることがあった。以下それらを記していく。

BLAZE
2002年10月31日、ディファ有明で行われたハロウィン興行ではハロウィンにちなみ全選手が覆面を被り、パンプキンですを代表に楽しい試合を行っていた。しかし、メインイベントで登場したBLAZEというマスクマンは何時ものNOAHと変わらぬハードヒットを一人繰り返し、周りのマスクマンを戸惑わせていた。常に真剣勝負の小橋らしいマスクマンである。もっとも、珍しい高速ブレーンバスターなどを繰り出していたので、本人的にはキャラをつくっていたのかもしれない。

ケン様
2004年9月23日、ディファ有明で行われた東西対抗戦の第二部、西軍「ブサイクの祭典(1人を除く)」にて小橋軍と秋山軍の対抗戦が行われた。これに際し負けたチームのリーダーが罰ゲームとして「自腹でファン5名に夕食をご馳走する」ことと、「ヨン様のコスプレ」が秋山の提案により課されていた。最後には小橋対秋山という夏の東京ドーム大会を髣髴とさせる大将戦までもつれ込むが、場外乱闘の後秋山は橋を投げつけて小橋のリングインを阻み、場外カウント勝ちを収めた。憮然とした表情で小橋は控え室に引き上げる中、リング上で秋山は秋山らしく女性が出るまで何度もくじを引き直して5名を選出、場つなぎで橋にマツケンサンバ II を躍らせると遂に準備が完了する。あの曲が鳴り響く中、かつらにメガネ、セーター、マフラーとフル装備のケン様が笑顔で登場する。歓声とフラッシュが飛び交う中、「アニョハセヨ」と韓国語で挨拶しポーズをとり、「もう一人ゲストが居ます!ユジン!」と似ても似つかぬスギンを招き入れた。再び二人でポーズをとると、空から二人を祝福するかの如く粉雪のような紙ふぶきが舞い落ちてきた。すると突然スギンが暴走しケン様の唇を奪おうと強引に迫って来る。貞操の危機を感じたケン様は渾身のチョップを叩き込み、力でスギンをなだめ、二人は幸せそうに花道を引き上げていった。なお、これを見た秋山は「思ったとおりだね。感無量ですよ」、「ドーム以上の借りを返せた。次はクリスマスでコバケンサンバだ」と発言している。

剛腕(豪腕)大魔王
2004年12月24日、ディファ有明で行われたクリスマス興行において、毎年お約束と化していた日テレ製作(前年まではFIGHTING TV サムライ製作)の特別映像作品「ディファ有明戦隊ノアレンジャー」の中で登場したキャラクターの一人である。セーラー服に身をつつみ、美しい長髪をなびかせるタモみに「おじちゃんとあそぼうか」と突如襲ってきた人物こそ剛腕大魔王その人である。しかし、三沢を中心としたやたらと多い「30人揃ってちょっとモッコリ、ディファ有明戦隊ノアレンジャー」に邪魔をされてしまう。地力の違いで一気に27人を片付け残り3人としたが、ここでホワイトレンジャーがタモみのサラサラヘアーをなびかせた。「俺がやりたかったのにー」と気を取られている隙に、ある曲聴くと無性に踊りたくなる「スターネスサンバ」を受け敗れてしまった。上述の東西対抗戦にて試合後秋山が語っていた「クリスマスは躍らせる」という流れに上手く持っていったのだが、小橋は剛腕にモノを言わせ無理やり橋に踊らせた。全試合終了後、ノアレンジャーの姿のまま選手一人ひとりが挨拶を行う中、秋山は「ワシントンホテルで小橋が1人で泊まってます。よろしくお願いします」と発言し、小橋は「剛腕大魔王です。こんな格好で言うのも何ですでけど、今年1年どうもありがとうございました。来年もプロレス道へまい進していきます。よろしくお願いします」と大会を締めた。

スポンサーサイト
スポーツ | トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]
| ホームへ |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。