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中田 英寿

中田 英寿(なかた ひでとし 1977年1月22日)は日本の山梨県甲府市出身で同国代表、プレミアリーグボルトン・ワンダラーズ所属のサッカー選手。愛称はヒデ。 人物紹介
韮崎高校時代、2年時に全国大会出場。1995年、Jリーグのベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に加入。フランスワールドカップでの活躍が認められ、21歳の若さでイタリア・セリエAに移籍。28歳で新天地イングランド・FAプレミアリーグにその場を移した。

日本代表としては甲府北中3年時にU-15に選出され、アジアユース選手権(U-16)で世界への第一歩を踏み出した。以後は全ての年代別世界大会(U-17世界選手権、ワールドユース、アトランタオリンピック、シドニーオリンピック)に出場している。

20歳でA代表入りし、ワールドカップ出場権獲得のためのアジア予選で活躍。日本代表選手としてのポジションを不動のものとし、21歳で出場したフランスワールドカップではチームの核となった。日韓ワールドカップでは弱冠25歳で精神的にもチームを牽引する中心選手として戦った。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、苦戦の中、第2戦のクロアチア戦ではマン・オブ・ザ・マッチに。また、グループリーグ敗退国のベストイレブンにも選出された。今大会最後の試合となったブラジル戦終了後は、精根尽き果ててピッチに倒れ、涙する姿があった。今後の動向が注目される。

略歴
1991年 - 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15に選出される。
1994年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム中11チームから獲得オファーを受ける。
1995年 - ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に加入。同年FIFAワールドユース選手権でベスト8。
1996年 - アトランタ五輪日本代表としてプレーし、アジア予選を突破。本大会ではブラジルに勝利する(マイアミの奇跡)。
1997年5月 - W杯日韓共催記念試合でA代表デビュー。
1998年 - フランスW杯に出場。大会後にセリエA・ACペルージャに移籍。シーズン開幕戦(対ユヴェントス戦)で2得点を挙げる。
2000年1月 - ASローマに移籍。
2000年9月 - シドニーオリンピックベスト8。
2001年6月 - コンフェデ杯出場。
2001年6月 - ASローマで日本人として初めてセリエA優勝。
2001年7月 - ACパルマに移籍。イタリア杯優勝。
2002年6月 - ワールドカップ日韓大会ベスト16。1得点を挙げる。
2003年1月 - ボローニャに期限付き移籍。
2004年7月 - フィオレンティーナへ完全移籍。
2005年8月 - イングランド・プレミアリーグ ボルトン・ワンダラーズへの一年契約での期限付き移籍。
2006年6月 - 自身3度目となるワールドカップドイツ大会に出場するが、グループリーグ敗退。
また、サッカー以外にも2003年7月9日より、菓子メーカー株式会社東ハトの執行役員に就任している。

プレイスタイル
中盤の攻撃的なポジション(ミッドフィルダー)でプレーしている。
中田英寿のプレーで特に有名なのはキラーパスと称されるパスで、そのスピードとコースは受け手が中田の意図を理解しないと追いつけない鋭いパスである。[1]
かつてはキラーパスに隠れて目立たなかったが遠方にいる相手へ送るパスも高速かつ正確である。
フィジカルの強さ、ボディバランスの良さでボールをキープし、相手を引き寄せて味方がゴール方向に走る時間を作ってラストパスを出す、といったプレーを得意としている。
戦術理解・状況分析と修正・コーチング・スペースメイキングなど、目に見えないプレーのクオリティの高さも特徴の一つである。
左右両足で蹴れるなどボールの扱い自体はうまいがドリブル突破はそれほど多くはない。
日本代表では、トルシエ監督時代(1999年-2000年)3-5-2のトップ下で司令塔としてプレー。ジーコジャパン初期(2002年)には4-4-2の2列目で中村俊輔と並んでプレー。2005年6月、ボランチ・小野伸二の離脱により、小笠原満男が2列目、中田は3列目から攻守に関わるオールラウンダーのボランチとしてゲームメイクすることが多くなった。[2]2006年5月ワールドカップ直前のドイツ戦では、3-5-2のボランチの位置でスタートした。

アラカルト
高校生の時からイタリア語の勉強をしており、イタリアメディアに対する会見やインタビューは通訳を使わずにこなす。今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。またプレミアリーグへ移籍後は、通訳なしで英語で受け答えしている。
また、8年に及ぶ欧州でのプレー、社交的な性格から世界のスーパースターとも交流があり、世界選抜やチャリティーマッチにも選出されていて、ワールドカップドイツ大会1次リーグ第3戦対ブラジル戦では試合前の入場通路でロナウド、ロナウジーニョ、カカらと談笑するシーンがみられた。
彼が日本に帰国するたびに「成コレ」と呼ばれるファッションがファンやマスコミの注目を集めている。
メディア・マスコミとの軋轢により、自身のHPで情報・メールを発信する事が非常に重要になっている。これがスポーツ選手のウェブサイトやブログの先駆けとなる。[3]
東ハトの非常勤執行役員に就任するなど、事業家としての手腕も発揮している。
2005年ニューヨークにビルを購入。ここを拠点に世界を旅したいと語っている。
出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府のJ1昇格を祝福したり、山梨県にユニフォームを贈呈するなど、故郷への思いも伺える。
個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOとなでしこリーグのスポンサー契約の橋渡し役となった。
プランデッリ(パルマ時代)の元では中盤の右サイドで起用され無尽蔵の運動量を示した。しかし中田が自分のスタイル(中盤で自由に動く)に戻ることを選択。ポジションを失うこととなったため、出場機会を求めて中田に甚大な信頼を寄せるマッツォーネの元にレンタル移籍。ボローニャのセリエA残留にその力を発揮し期待に応えたが、年俸が高額なため完全移籍には至らなかった。
2001年、コンフェデ杯の日程と所属クラブの優勝決定試合が重なったため、トルシエとの話し合いで「日本代表として準決勝までは同行。決勝には不参加。」という条件でコンフェデ杯に参加した。準決勝では雨のなかチームを決勝に導くフリーキックを決める。その後決勝には参加せずイタリアに戻りスクデット獲得の瞬間に居合わせた。[4]
右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちが、中田のボディーガードを務めた事がある。またその一人は、K-1JAPAN大会で優勝したことのある、ニコラス・ペタス選手であった。

所属チーム
1986年-1989年 - 北新サッカースポーツ少年団
1989年-1992年 - 甲府北中学校 サッカー部
1992年-1995年 - 山梨県立韮崎高等学校 サッカー部
1995年-1998年 - ベルマーレ平塚
1998年-2000年 - ACペルージャ
2000年-2001年 - ASローマ
2001年-2002年 - ACパルマ
2003年-2004年 - ボローニャ
2004年-2005年 - フィオレンティーナ
2005年- - ボルトン・ワンダラーズ

個人タイトル
1997年 Jリーグベスト11アワード
1997年 AFC Player of the year
1997年 内閣総理大臣賞/プロスポーツ賞
1998年 AFC Player of the Year
1998年 AFC All Star Team
1998年 セリエA 外国人選手MVP
1999年 AFC All Star Team
2004年 FIFA 100に選出
2005年 カヴァリエーレ勲位(ナイト)
2005年 イタリア連帯の星褒章
2006年 イタリア連帯の星勲章受章(イタリア共和国カバリエレ)

出場大会
1992年 U-16アジアユース
1993年 第72回高校選手権 (2回戦敗退)
1993年 U-17世界選手権 (ベスト8)
1994年 U-19アジアユース
1995年 ワールドユース (ベスト8)
1996年 アトランタオリンピック (グループリーグ敗退)
1998年 フランス ワールドカップ (グループリーグ敗退)
2000年 シドニーオリンピック (ベスト16)
2001年 コンフェデレーションズカップ (準優勝)
2002年 日韓ワールドカップ (ベスト16)
2003年 コンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
2005年 コンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
2006年 ドイツワールドカップ(グループリーグ敗退)

関連情報

作品

DVD

Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2

書籍

執筆書籍
1999年 中田語録(文藝春秋社、小松成美編集、ISBN 4167272229)
2000年 nakata.net―98‐99 (新潮社、ISBN 4104359017)
2001年 nakata.net〈2000〉(新潮社、ISBN 4104359033)
2002年 nakata.net〈2001〉(新潮社、ISBN 4104359041)
2003年 nakata.net〈2002〉(新潮社、ISBN 410435905X)
2003年 文体とパスの精度(集英社、村上龍共著、 ISBN 4087475719)
2003年 nakata.net 2003(新潮社、ISBN 4104359068)
2005年 NAKATA 1998-2005 ~ 中田英寿 イタリア セリエAの7年間 ~(エクスナレッジ、ISBN 4767804965)
2005年 ドイツW杯への道 nakata.net(新潮社、小松成美編集、 ISBN 4104359076)

関連書籍
1998年 中田英寿 鼓動 (幻冬舎、小松成美、 ISBN 4877282785)
2002年 悪魔のパス 天使のゴール(幻冬舎、 村上龍、ISBN 4344001893)
2005年 ナカタ ノ ナカミ(マガジンハウス、ナカタ ノ ナカミ製作委員会、ISBN 4838715684)

出演

CM

キャノン
コカ・コーラ
Nike
TOYOTA
SKY PerfecTV!
「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーン
国際連合
アサヒ飲料
資生堂

テレビ・ラジオ番組
nakata.net TV

脚注
↑ 中田本人は2006年5月に報道ステーション出演時に「あれはそこに動いてくれという意思表示。パスで会話が出来る」と語っている。
↑ 2003年のボローニャ時代はボランチ(本人はnakata.net tvの中で『センターハーフ』とコメントしている)として活躍・貢献。チームメイトからは「中田は銀行。中田に預けておけば安心」と賞賛された。
↑ アトランタオリンピック時の一連の出来事(朝日新聞が「君が代ダサい」と中田が発言したと報じた。中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」として、マスコミとの軋轢が絶えなくなった。そのため一時期は日本における生放送以外でのメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。スポーツ選手のホームページの先駆けとなった。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送へも出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成している。
↑ セリエAでは90年代からACミランとユヴェントスの2強がスクデットを独占していたが、中田がASローマに移籍した00-01シーズンではローマがスクデッドを18シーズンぶりに獲得したため。
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